さて、ここで注目すべきなのが、生産者と消費者の利害の不一致である。
消費者余剰も、社会的余剰も、完全競争をもたらす自由化によって大きくなるので、その点において一致しているが、生産者余剰はそれとは反する。
そこで、生産者への説得の手法のひとつに、もしくは自由化の正当化の根拠のひとつに「仮設的補償原理」がある。
「仮説補償原理」とは、ごく簡単に述べれば、自由化をするとパイは大きくなるんだから、その大きくなった分で生産者の余剰の減少分は再分配で埋める事は可能なので、とりあえず自由化し再分配の問題は別にしよう、というものである。
*1
ここで、生産者が政府による再分配の信頼を持たなければ、当然、自由化には反対するだろう。


また、レントシーキングの合理性の根拠として次のようなものが考えられる。
任意の市場における生産者の数は消費者の数より少ないのが一般的である。
再分配が期待できない場合、おのおの生産者が自由化によってこうむる被害は、おのおのの消費者が自由化によって受ける恩恵よりも、より大きくなる。
したがって、政府に対する働きかけは、生産者の方が消費者よりも強くなって当然である。
ウィットマンはこのようなことをより一般化し、「政治市場は効率的である」といったような趣旨のことを述べた。
政府に対する働きかけを行う政治市場のようなものがあるとすれば、そこでも競争が行われているのだから、競争の結果、レントが生み出されているとすれば、そのレントは競争の結果である、ということになる。


以上は、供給曲線が右上がりの場合の通常のケースについての考察であるが、右下がりの場合について、以下で考察してみる。
この場合、通常のように、限界費用(供給曲線)=価格、としてしまうと採算が取れなくなる。
たとえば、簡単にコピー可能な知的財産の開発について考えてみるとよい。
*2
最初の開発投資に掛かる費用は膨大であるのにたいし、コピーは非常に低価格でできる。
図を書けばわかるが、この場合、限界費用は常に平均費用より上部に位置するので、限界費用=価格、とした場合、生産者余剰は常にマイナスである。
ここで、知的財産に対する所有権を認めなければ、個人・企業等に参入するインセンティブはなくなる。
そこで、開発した個人・企業に所有権を認め、参入のインセンティブを与えるのが、知的財産権と捉えられる。
知的財産権を与えることにより、開発者はプラスの生産者余剰を得ることができ、参入するインセンティブが発生する。


ここで、先のレントの定義にもどりたい。
右上がりの供給曲線の場合、自由化後(完全競争時)と規制時との生産者余剰の差がレントである。
右下がりの供給曲線の場合はどうか?
右上がりの場合と同様の定義を用いれば、政府による規制(知的財産権の保障)によってはじめて発生する、プラスの生産者余剰はすべてレントとなる。
ここで、数量規制などによる通常の(独占)レントと、右上がりの場合に発生するレントを区別する。
青木昌彦らにならって、後者のレントを「状態依存レント」(contingent rent)と呼ぶ。
知的財産権の保障は状態依存レントの一種である。
状態依存レントとは、政府により発生させられたレントが、非生産的なレントシーキング活動を生まず、生産的な活動を生む場合に用いられる。
たとえば、知的財産権のほかに、リレーションバンキングの創設のための政府の銀行への規制や、「マーシャルの外部性」にたいして、産業集積のための政府の補助などが挙げられる。


以上のことを前提として、戦後日本が大きく発展したことを鑑み、政府と民間の間の依存関係を考えてみたい。
おおむね、以下の説に分けられよう。


1 戦前の社会主義的ともいえる「1940年体制」が戦後も存続し、政府による介入が成功し経済が成長した。(野口悠紀男ら)


2 戦後の政府の介入は、成功していない。介入が失敗したというよりも、むしろ、有効に介入するということ自体できなかった。ゆえに、政府の介入は経済成長に中立である。(三輪芳朗ら)


3 政府の介入が有効であったと想定しモデルを組んだ場合、介入によるプラス面よりもマイナス面のほうが大きい。(大瀧雅之ら?)


4 戦後も「1940年体制」が存続したわけではないが、その影響もあり戦後、非意図的に民間と補完的な官僚制ができ、経済成長がより促進された。(青木昌彦ら)



ここで、どの説が正しいのか検証はしないが、レントとの関係で考えてみると、政府が経済成長にプラスの効果を与えた、という場合(1・4のケース?)、


a 自由化による社会的余剰の増加+状態依存レントが存在する市場への介入による社会的余剰の増加>(独占)レントによる社会的余剰の損失


となり、マイナスの効果を与えた場合(3のケース?)、逆に


b 自由化による社会的余剰の増加+状態依存レントが存在する市場への介入による社会的余剰の増加<(独占)レントによる社会的余剰の損失


となろう。


また、左辺の自由化と状況依存レントのどちらにより重みをつけるか、でも議論は分けられるだろう。
市場において供給曲線が右上がりのケースが多い場合には自由化の方により重みが付くだろうし、右下がりの場合には状況依存レントの方により重みがつくだろう。
村上泰亮のいいたかったであろうをごく簡略化すれば、終戦後の日本において収穫逓増―すなわち供給曲線が右下がりの―のケースが多くそれに対し、優れた官僚制により、状態依存レントを生み出し得、aの状況が成長をもたらした(状態依存レントにより大きい重みがかかる)ということではなかろうか。*3


最近までの構造改革(市場の自由化の潮流)*4は、bの状況であるという判断をもとにしている(していた?)ものであろう。
ところが、全要素生産性の計測方法のひとつである、ソロー残差は実は低下していなかった、という説もある。*5ここから、日本の経済は最近でも、bではなくaだった、という解釈もできる。
この場合、よく言われるように、「不況の発生の主な原因は、マクロ金融政策の失敗である」、と考えれば、ミクロ的には効率化が達成されaの状況であるにもかかわらず、マクロ的に不況が発生(合成の誤謬)することはあり得る。

*1:この仮設的補償原理にはパラドックスが生じることが知られており、今のところ解決していないらしい。

*2:ここでは、人は金のみに開発のインセンティブを見出すと単純化する

*3:たいして、村上のゼミ生だったらしい、松山公紀はその介入の成功の困難さを述べている。詳しくは若田部昌純『経済学者たちの闘い』や 青木昌彦他『東アジアの経済発展と政府の役割―比較制度分析アプローチ』所収の松山公紀の論文を参照。

*4:安倍政権になって、そうでもなくなった?

*5:http://bewaad.com/20061021.html及びhttp://www.imes.boj.or.jp/japanese/jdps/2004/yoyaku/04-J-26.htmlによる。

遅れてしまったが、ごく簡単なミクロ経済学をつかい「レントの経済学」について述べてみたい。


参考文献:常木『公共経済学』新世社、青木『比較制度分析にむけて』NTT出版、ウィットマン『デモクラシーの経済学』東洋経済新報社


右下がり需要曲線、右上がりの供給曲線によって表せられる市場を想定する。
そこで完全競争が行われれば、価格・数量ともに、需要曲線・供給曲線の交点が均衡価格(数量)となり、社会的余剰が最大化される。
ここで、なんらかの原因で政府が数量規制を行い、供給される数量が、完全競争で達成されるべき均衡数量よりも、少ない場合を考える。
この場合、価格は先の均衡価格より高くなる。
このことにより、いわゆる死加重損失(dead weight loss)が発生し、社会的余剰が低下する。
社会的余剰を最大化するには、最初に述べたように、完全競争を行えばよいのだから、本来なら政府は数量規制をやめ、市場を完全競争市場にすべきである。
そうできない場合、政府に何らかの作用が働いているとみるべきである。
その作用がレントシーキングである。
以下、完全競争のときと不完全競争のとき(数量規制のとき)との、生産者余剰と消費者余剰の変化に注目しレントシーキングのメカニズムについて分析してみる。
図を書いて見れば、以下のことが簡単に分かるだろう。


生産者余剰:不完全競争のとき>完全競争のとき
消費者余剰:不完全競争のとき<完全競争のとき
(社会的余剰:不完全競争のとき<完全競争のとき)


ここから明らかな通り、数量規制がなくなれば、生産者余剰は低下する。
その低下によって失われるものを、とりあえず「レント」と呼ぶ。
*1
生産者はレントを保持するために、余剰の低下を防ぐために、政府に圧力をかける。(つづく)

*1:もともとは、周知の通りrent=地代であり、数量規制によるものは、「独占レント」と呼ばれるべきのであるかもしれないし、長期的には多数の企業の参入により生産者余剰自体が消滅するので、右上がりの供給曲線による生産者余剰自体が「準レント」と呼びうるものである。しかし、以上のことは議論を簡単にするため、とりあえず考慮しない。

誰も見ちゃいないだろうが、今の時点でのを書いておく


1位 稲葉振一郎『経済学という教養』

かなりインパクトがあった。
一時期、洗脳されてしまったのだろうか・・・
この本の思考法から逃れられなくなってしまった。



2位 岩井克人貨幣論

繰り返し何度も読んだ。
はまった。
現代思想と経済学の橋渡しとしても素晴らしい?!(いまどきそんな橋渡しなんて不要かも…)



3位 岩田規久男 『日本経済を学ぶ』

明快な説明で、それまであいまいだったものが整理された。


4位 青木昌彦他 『東アジアの経済発展と政府の役割―比較制度分析アプローチ』

松山公紀のが秀逸だったきが。
でもあまり読まれてないのだろうか?絶版だし。
『経済システムの比較制度分析』なんかよりよい気が…



5位 金子守 『ゲーム理論と蒟蒻問答』

実際にはきちんと理解できてないし、私にとっては難しすぎてどうだっていい問題だったが、なんか分かった気に、考えた気にさせてくれた。




番外(経済書じゃなく入門的教科書)
常木淳『公共経済学』
ブランシャール『マクロ経済学
岩田規久男飯田泰之『ゼミナール 経済政策入門 』
上2冊は内容は良いのに、そんなに読まれてなさそうなのもよかった
岩田・飯田のは分かりやすいのに読めば読むほど味が出る。おこがましいが(私自身は何様だといった感じだが)、私が望んでいた本だ。


*次回
経済関連で、次回は、私が以前ちょっと考えた、「レントの経済学」(?)について書きたい。いつになるかしらないけど。

不動産の所有権の移転はいつなのだろうか?

意思主義を採用すると、代金の支払い、登記の有無、引渡し、等に関係なく、売買契約が結ばれたときに所有権が移転したとみなすべきである。
ただここで次のような特約が売買契約時のになされていた場合は、どうなるのだろう?
即ち、売買契約時には手付金のみが支払われ、そして残りの代金が支払われて初めて所有権を移転するものとする、といったような特約が売買時にあった場合である。
このとき、手付金のみの支払いが行われ所有権移転登記が行われたとする。しかし、銀行から融資が受けられないといった事情により、残りの代金が支払いができずに錯誤等を原因として、所有権をもとの所有者に戻した場合、所有権は一旦は移転したとみなせるのだろうか?


そもそも、売買契約時の特約は有効なのか?意思主義によれば契約が結ばれた時点で所有権が移転するんだから、特約は意味をなさない?それとも、「特約」も両者の意思だから、尊重されるべき?

あと、仮に、特約が有効だったとしても登記をしてしまった、ということについてはどうなのだろう?登記は対抗要件に過ぎないから、所有権は移転してないのか?
でも、両者の合意(意思)のもと、所有権移転登記をしたわけだし・・・意思主義によれば、一旦は移転したとみなせる?このばあい、要素の錯誤があれば所有権の移転は無効だが、融資を受けられなかったことは要素の錯誤にあたり無効?(そもそも、あたるのか?)


内田貴民法Ⅰ』をよんでみたところたしか、「所有権の移転は売買契約成立時である」という判例と「代金支払い時(登記完了時)である」という判例が紹介され、それにくわえ、所有権を権利の束のようなものと捉え、移転開始時から終了時まで徐々に移るという考えも示されている。

有力な判例・通説はないんだろうか?