インディヴィジュアル・プロジェクション』 論―1990年代後期の身体の表象について

 
 18世紀に「人間」という概念が「発見」された。つまり、その時代に初めてヒトは自分自身を「自然」から区別し、自己を特権化するようになったのである。しかし、フーコーの認識に従えば、「人間」の発見以来、ヒトは「透明な眼差し」として外からタブローをのぞき見ていたが、18世紀後半から19世紀前半にかけて「人間」自身をタブローの中に組み込んだことにより「地殻変動」が起った。ここでいう「地殻変動」とは即ち、「人間」の相対化の始まりとみなすことが出来る。今日でもなお、その「地殻変動」の余震が響き続けているとすれば、その相対化が進行しているとみなすことが出来る。その結果どういうことが起こり得るだろうか。そのことについてフーコーは次のように述べている。
「それにしても、人間は最近の発明に関わるものであり、二世紀とたっていない一形象、われわれの地の単なる折り目にすぎず、知がさらに新しい形態を見いだしさえすれば、早晩消え去るものだと考えることは、なんとふかい慰めであり力づけであろうか。」(『言葉と物』)
 ここで彼は、知がヒトに関して「新しい形態」を見いだしたときにおける「人間」概念―表象としての「人間」―の消失を予見している。
 この論考のおもな目的は、『インディヴィジュアル・プロジェクション』(以下『IP』)を用い、1990年代後半の身体の表象を抽出すことによって、「地殻変動」の余震、即ち「人間」の相対化が進行しているかどうか、しているとすれば、そこではヒトに関する「新しい形態」が、どのように見出されつつあるのかということについて考察することである。
 『IP』の主題は、文庫版にある東浩紀による解説に従えば、「移転と分裂、神経症的なものと多重人格的なもののこの共存」*1といえる。その神経症的なものと多重人格的なものがどこに共存するかといえば、それはもちろん身体に共存するのである。神経症においては、単一の精神が移転を通して、複数の身体に宿る(と認識する)。それに対して、多重人格においては、精神が複数に分裂しつつ、単一の身体に宿る。これは、『IP』の舞台となっている渋谷の風景とも重なる。「一方でそこには神経症的なアイテムが満ちていて、消費のモードが高速で回転している。しかし他方でその町路はまた奇妙に非人間的で移転不可能な空間でもあり、通行人たちは互いに関心を示さず、ただ黙々と目的地へ邁進するか、携帯電話に話し掛けすぐ横での売春交渉に気づくこともない。」*2つまり、『IP』の主人公であるオヌマは渋谷を表象しているのである。
 『IP』はオヌマが書いた日記による独白という形式をとっている。従って、この日記においてはオヌマ以外の登場人物の主観的感情を読者が知ることは出来ない。『IP』の中盤あたりで、オヌマの分身であるかのようにオヌマ自身によって暴かれたカヤマ、イノウエは、最後においては、じつは彼らが実在しているということが示唆される。それによって、オヌマについて途中までは多重人格のような印象を抱かせるものの、最後の頃のカヤマ、イノウエが「実在」していたという場面によって、実はオヌマは自己と他者とを同一視するような「ただの神経症」であったというだけのような印象を抱かせる。ここで「ただの神経症」という言い方は、単に神経症を軽く見ているだけだと思われるかもしれないが、そういうわけではない。日記というオヌマの主観を通しての物語世界しか知ることが出来ないこの小説の形態において、主観が分裂している多重人格は、オヌマとその分身の自他の区別のあいまいさのみでなく、物語世界自体に対してもあいまいさを読者に感じさせる効果を持つからである。しかし、最後のカヤマ、イノウエの「実在」の示唆によって、物語世界の「実在性」も保障される。つまり、物語世界自体を骨抜きにするという圧倒的な力をもつ多重人格との対比においては神経症も「ただの神経症」といえるのである。
 しかし、対して、オヌマが過去に入っていた高踏塾についての日記の中での回顧で、レポートを書く際には、「自分以外の誰かに徹底してなりきってみることが肝要で」、そのレポートの作成は、「塾生たちの想像力強化の訓練でもあった」という記述もある。*3すると、オヌマが神経症であったということによって一時は片付いていたはずの『IP』の物語世界の「実在性」が再び揺らぎ始める。『IP』が「自分以外の誰かに徹底的になりきって」書かれた、単なる「想像力強化のための訓練」の一環でしかないとしたら・・・
 最後に書かれている、M=マサキによって書かれた日記についての感想のなかの次の記述により、それはさらに裏付けられる。「そう君もすでに気づいているかもしれないが、これはまさに私の歌でもある。『ボヘミアン/詩人/宿無し/みんな私』だとフリオはいう。私もそうだ。君はどうか?そろそろ君も、『みんな私』だと言い切らねばならぬ頃だと思うが、どうだろう?」*4ここから、オヌマ=マサキと解釈してみる。するとこのことから、この物語自体がオヌマ/マサキが自分自身に課した課題であると考えられる。それは先の、『IP』が「自分以外の誰かに徹底的になりきって」書かれた、単なる「想像力強化のための訓練」の一環である、という解釈とも整合的である。まさに、この本は題名の通りの「インディヴィジュアル・プロジェクション」なのだ。ではなぜ敢えて、「インディヴィジュアル・プロジェクション」などといったことをオヌマ/マサキは自分自身に課したのだろうか。
 そのことの理由の一つには、「身体の希薄さ」ということが挙げられよう。『IP』冒頭で、オヌマは、フリオの歌を聞きながらセックスをするのが習慣となって以来、その歌によって触発された性的衝動は、性的な処理か暴力的な処理のいずれかにによってしか解消され得ないということが示されている。一方彼は、偏頭痛持ちでもあり、「父親も偏頭痛もちなので、遺伝かも知れぬが、だとすればぼく(オヌマ)の代でほぼ克服された。訓練によって。」*5だが、「これ(フリオの歌に触発された性的衝動)ばかりは寝ても無駄なのだ。ぼくが目覚めれば、当然、僕の身体じたいも目覚めてしまう。」*6
 以上のことから、この物語を性的衝動によって目覚めた身体を規律付ける「訓練」の一環として読むことが出来る。つまり、性的衝動は物語化=対象化されることによって「昇華」されるのである。その中では、必然的に自己は規律する側/される側に分裂せざるを得ない。その規律化の結果として、「理性」は得られるが、性的衝動が身体によって満たされない以上、身体は希薄になるのも当然といえる。
 フーコーは『監獄の誕生』の中で、パノプティコンに代表されるような、近代における規律権力の内在化を指摘した。近代において「理性」を獲得するためには、自分で自分を律しなければならないのである。しかし、その規律の過程において、誰しも自己の中に多かれ少なかれ、規律する側/される側という分裂が生じる。だがそれによって、身体的な衝動をなにか他のものに「昇華」することが可能となる。
 ここでは二つの問題が生じる。上でも述べたようにそれは、自己の分裂と身体の希薄化という問題である。このことから、上記の問題設定―1990年代後半の身体の表象を通して考えられる、「地殻変動」の余震、即ち「人間」の相対化が進行しているかどうか、しているとすれば、そこではヒトに関する「新しい形態」が、どのように見出されつつあるのかということ―について次のような暫定的な解答を与えることが出来る。
 この物語における身体の表象は、自己の規律化=理性化の課程において見出される、希薄な身体である。本来「理性的」な存在であったはず/あるべき「人間」は、まさにその「理性化」の過程において、「非人間的」な自己の分裂を抱えてしまっている。その意味で「人間」は相対化されており、1990年代後半においてそのことが表象されている。その問題に対する著者の解答は、即ちヒトに関する新しい形態として、この本主題である「移転と分裂、神経症的なものと多重人格的なもののこの共存」*7という形態が提示されている。それはまさに、オヌマが表象している渋谷の街でもあり、それが著者が「渋谷系J文学?」とかいわれた所以であろうが、「パンクバンドはセックスピストルズ以降には登場しなかった」(?)とかいったような言葉があるように、阿部以降の「渋谷系J文学」以降の「渋谷系J文学」は「渋谷系J文学」でないと私は考える。

*1:『IP』、p.206

*2:同前

*3:『IP』、p.55−56

*4:同前書、p.190

*5:同前書、p.6、括弧内は引用者による

*6:同前、括弧内は引用者による

*7:『IP』、p.206