Ⅰ貨幣の成立
 『貨幣論』の1、2、3章において、主眼に置かれているのは、一言でいえば、貨幣の成立に関する考察であるといえよう。だがそこから得られる洞察は、経済の現象一般についてのみならず、主体/客体、本物/代わりの二項対立の思考法を超える契機を含んでいる。また、『資本論』というテクストが「読者」(岩井)(著者のマルクスから見れば「客体」)によって解釈され、そこでは『資本論』の「著者」としてのマルクスの「主体性」がそぎ落ちて、マルクスが自ら強烈に支持した労働価値論を自ら無意識的に壊してしまっているという読みが与えられているという点においても、上記の二項対立の崩壊の構図を、メタなレベルで捕らえられ興味深い。では、『貨幣論』での『資本論』を敷衍した、貨幣の成立についての考察について詳しく見ていく。
 マルクスは、上記にもあるように、労働価値論を熱烈に支持していた。このことは、次のような記述からも明らかである。「労働生産物は、それが価値である限りでは、その生産に支出された人間労働の単に物的な表現でしかない。」*1だが、このような表現は、「現代においては、超保守的なマルクス経済学者のあいだでも」*2その実体論的主張が薄めようとされる傾向が強いという。
 しかし岩井は、労働価値論を非実体論的に解釈しようとする試みを批判する。(ただし、後にも見るように、彼自身は、労働価値説そのものは支持していないと考えられる。しかしそれは、教条的な立場からのマルクスの論理そのものに説得力を与えるための安易な不支持ではなく、マルクスを徹底的に読み込み、そこから得られた貨幣についての「循環論法」という視点からの論理による、労働価値説を内側から破壊するような不支持である。)というのも、労働価値論を実体論として捕らえることによって初めて、価値形態論を綿密に展開することが可能となったからである。
 岩井は、「マルクスにとって、価値を形成する抽象的人間労働とは、ありとあらゆる人間社会に共通する『超』歴史的な実体以外のなにものでもないものである。」*3と述べている。よって、「マルクスの資本主義社会に関する科学(=資本論)の目的とは、超歴史的な価値の『実体』がまさにどのようにして商品の交換価値という特殊歴史的な『形態』として表現されるのかを示すことにあることになる。」*4このようなことを背景として考えることによってはじめて、マルクス自身も「細事のせんさく」と呼んだ、価値形態論についての考察の必要性、必然性が明らかとなる。
 興味深いことに、このようなマルクスの「科学観」をニュートンの「科学観」と比類することによって、マルクスのそれのヘーゲル左派的な要素が浮き彫りになる。ニュートンは、神が作り賜えた世界の「自然法則」を解明すること自体に価値を見出し、物理現象の解明を試みた。ここでニュートンは、神をいわば「実体」として捉えることによって初めて、当時の時代状況からすればおそらく「細事のせんさく」であるような物理現象をその「形態」として捉えることによって、解明し得たのである。一方、ヘーゲル左派は、ヘーゲルによる「神が人間を」自分に似せて作ったという考えを転換させて、「人間が神を」自分に似せて作ったと考えた。ここでは、人間と神の位置は逆転される。したがって、ニュートンにおける神の位置に、人間が代入されることによって、人間労働を「実体」としてみることが可能となる。以上の考察からもわかる通り、労働価値論にはヘーゲル左派的な思考法が必要不可欠だったのではないだろうか。
 マルクスは、『資本論』によって「疎外論」から「物象化論」へと転換したという説があり、評者自身もそれには大方賛成だが、その「物象化論」を生む契機となった価値形態論の根本にあった労働価値論には、ヘーゲル左派的、「疎外論」的な要素が不可欠だとすれば、前期と後期を簡単に分けるのは難しいのかも知れない。だがその反面で、上記でも述べたように、マルクス自らが労働価値論を無意識的に批判しているという点から考えると、やはり前期と後期に論理的切断が認められる。よって、これらの場合の論点は、テクストの自律性を認めるかどうかという点に、おそらく集約されるのではないだろうか。
 商品世界は、相互依存的な価値体系であるという趣旨のことをマルクスは述べている。だがこのことは、新古典派一般均衡理論においても認識されたことである。マルクス新古典派とを区別する基準は、資本主義の商品世界に固有の価値形態である「貨幣形態」に関する考察であると岩井は述べている。貨幣は、重商主義者によってストック概念として捉えてられていたが、そのような説は、古典派によるいわゆる貨幣数量説によって退けられた。しかし、恐慌において人々は、彼らの「啓蒙」にも関わらず貨幣に「神秘性」を見出し群がる。マルクスは、その「神秘性」を呪術的な要素などにではなく、一般的等価物であるという機能に見出した。ここから、価値形態論が展開されるのである。
 そこでの議論を、ごく簡略化して敷衍する。まず、「単純な価値形態」(鄯)として、「相対的価値形態」にあるAが、Bとの交換可能性の価値を表現することによって、Bは「等価形態」になる。ここでは、Aが主体で、Bが客体である。ここにおいて、ひとつの興味深い示唆が得られる。ここで、BはAによって「社会的」に価値が与えられているにもかかわらず、あたかもそれ自体で価値があるかのように人々に表象されてしまうのである。この社会的性質と、モノそのものの性質の取り違えこそ、価値形態に秘められた、貨幣形態の性質であるとマルクスはいった。だが岩井によると、「もしこの『取り違え』が『貨幣形態の秘密』のすべてであるならば、それは古典派による重金主義批判の水準を少しも越えるものではない。ここではまだ、等価形態にかんする『とりちがえ』は単なる主観的な呪物崇拝にすぎず、何の必然性ももっていない。」*5という。
 そして次に、「全体的な価値形態」(鄱)として、Aが「相対的価値形態」、〔B、C、D、E、F〕が「等価形態」という構図が挙げられている。次に、「一般的な価値形態」(鄴)として、〔B、C、D、E、F〕が「相対的価値形態」、Aが「等価形態」という構図が挙げられている。最後に、「貨幣形態」(鄽)として、〔A、B、C、D、E、F〕が「相対的価値形態」、一定の貨幣が「等価形態」という構図が挙げられている。
 (鄽)において、マルクスの貨幣形態に関する考察が終わるが、岩井によると、ここでも単に「共同幻想」を指摘しただけであり、(鄯)と同様、商品世界の構造の必然性が述べられていないという。そこで彼は、(鄱)から(鄴)への移行に注目し、Aという主体が〔B、C、D、E、F〕を客体化し、客体化された〔B、C、D、E、F〕が主体として、Aを客体化するという構造を見出す。ここで、Aは「相対的価値形態」であるとともに「等価形態」である。そして、Aを貨幣に置き換えると、「循環論法」的な貨幣形態(0)が成立する。
 (0)においては、価値形態論は、(鄱)と(鄴)とのあいだの「循環論法」と捉えられるので、そこにおいては、外部的要素である労働価値説は無効となる。ここでは、主/客の崩壊が、上記でも述べた通り、二重の意味で進んでいる。
 一つは、商品世界でのいわば「鏡像段階」(ラカン)における主/客の渾然とした状況である。ラカンは次のように述べている。「(言葉も語らない段階にいるこどもが鏡の像を喜悦とともに引き受けるという)現象は、私たちの目には、範例的な仕方で、象徴作用の原型を示しているもののように見えるのである。というのは、〈私〉はこのとき、その原始的な型の中にいわば身を投じるわけだが、それは他者との弁証法を通じて〈私〉が自己対象化することにも、言語の習得によって〈私〉が普遍的なものを介して主体としての〈私〉の機能を回復することにも先行しているからである」*6この「鏡像段階」を貨幣形態(0)に置き換えて考えてみると、貨幣が商品のいわば「鏡」の働きをすることによって、「循環論法」が成立していると考えられる。「鏡像段階」の通過によって人間は、幼児期の「分断された身体」に統一性を与え「私」を形成するとともに、その「私」の起源はその外部によって担保されているという点で一種の狂気を背負い込むことになる。それと同様に、商品世界においても、貨幣という鏡によって、商品世界には相互依存的な関わりが生まれる。その成立の起源には、人間世界と同様に一種の狂気を見出すことが可能なのかもしれない。
 もう一つの主/客の崩壊が著者であるマルクスの主体性を離れた、テクストの自律性である。マルクスは、労働価値論を徹底させたがゆえに価値形態論を展開することができたのだが、その価値形態論が労働価値説をテクストの内部から崩壊させるという事態が生じた。それを防ぐために、マルクス自身も「貨幣自身の価値は、貨幣の生産に必要な労働時間によって規定されていて、それと同じだけの労働時間が凝固しているほかの各商品の量で表現されている。」という、苦し紛れの仕掛けを作った。しかし、岩井の指摘するように「ここでマルクスは、フローの価値とストックの価値とを混同するという初歩的な誤りを犯している。」*7のは明らかである。
 以上のような価値形態論を踏まえ、交換過程論について考察する。岩井の趣旨に沿えば、交換過程論においては、モノとしての商品の寄せ集めが、価値体系としての商品体系への転化の物語を語ることが課題であるという。物々交換の世界では、いわゆる「欲望の二重の一致」が必要である。それに対して貨幣的交換がある世界においては、『貨幣』が一般交換性を持つことから、物々交換にはない貨幣的交換に特有な現象が生まれる。そのことによって、商品経済が成立する。よって、上記の物語を語ることとは、貨幣の成立について語ることともいえよう。
 貨幣の成立については、貨幣法制説と貨幣商品説という二つの考えがあった。前者は、「外部の権威によって、「貨幣」の一般的交換性が保証されている」という考えである。だが、時・空間の(主観的な)無限性を前提とするものを外部から簡単に措定できなかろう。よって説得性にかける。後者は、「もともと、全員からほしがられるものがあって、そのものが、時間の経過とともに『貨幣』として認知されていった」という考え方である。岩井によると、マルクスは後者に位置付けられるという。しかし、後者においても、特殊から一般へ、つまり商品から貨幣へ、という説に対する反論が、「貨幣」、「家畜」、「羊」という、一般から特殊へという変遷をたどった「peku」という語を用いてなされている。ここでは、「『家畜』という商品が最も全体的な欲望の対象であったから『貨幣』になったのではなく、『家畜』という商品がすでに『貨幣』であったから最も全体的な需要の対象」*8となりえたという可能性が示されている。
 以上のことから、貨幣の成立の説明としては、貨幣価値説・商品説ともに妥当性を持たないことになる。岩井はそれらの理論を、「貨幣という存在の中核にある空虚に絶えることができずに、なんらかの実態で埋め尽くそうとするこころみ」*9による「神話」にすぎないと断罪している。というのも、貨幣は循環論法的な形態(0)によって支えられている以上、実体的な根拠を想定するのは不可能だからである。したがって、貨幣の成立は無根拠な出来事になり、その成立は「奇跡」と見なさざるを得ないというのが、岩井の趣旨である。無根拠な「奇跡」の成立を物語ることが、「神話」=物語の一種の役割であるとするならば、「神話」=物語の拒絶は、それに代わる、代替案が示されない限りにおいては、無根拠性=「空虚」をそれとして受け止めることが要請される。
 その上で、貨幣の成立について考えるとどうなるだろうか。ここでは、「神話」を拒絶した以上、無限の「循環論法」である価値形態(0)を前提とできるし、またそうせざるを得ない。そして、「循環論法」から貨幣の成立を考えるヒントを、またもやマルクス自身が、意図せずして出している。
 マルクス自身は価値記号論において、流通している紙幣を金塊などの「本物」の「代わり」とみなしている。また彼は労働価値論を支持していたので、兌換され得る「本物」の金には、投下労働時間が反映されていると考えた。しかし、紙幣は兌換準備金の量と関わりなく現実には流通し得る。したがって彼は、紙幣の流通に関しては、価値法則のような自然法則とはみなしておらず、「規範」的な実務上の規定として、「紙幣の発行は、紙幣によって象徴的に表示される金(または銀)が現実に流通しなければならない量に制限されるべきである」*10と述べている。ここでの彼の「規範」性は、倫理的な動機からではなく、単に、理論の一貫性を保つためになされたものである。だが、上にも記したとおり、現実は彼の「規範」の通りになっているはずはなく、兌換準備金以上の紙幣が流通し得る。その場合紙幣は、「それがどういう金名義を持って流通に入り込もうとも、流通の内部では、その代わりに流通できるはずの金量の記号にまで圧縮される。」*11と、彼は述べている。それに対して、「金と貨幣のように、そのあいだの対応関係が何の制限もなく自由に伸び縮みし、一日たりとも同じでないとき、そこにはもはや記号するものと記号されるものという関係は成立していない。記号とは、記号とは、記号されるものと記号するものとの関係がなんらかの意味で恒常性をもつからこそ、初めて記号としての働きをするのである。」*12と岩井は述べている。
 では紙幣はなにを根拠として流通しているのか。その説明を奇しくもマルクス自身がしている。すなわち、「金は価値をもつから流通するのに、紙幣は流通するから価値をもつのである。」*13ここでまたもや、マルクス自身が労働価値論を自分で否定してしまっている。そして、「一般的な価値形態」(鄴)から、「全体的な価値形態」(鄱)への反転が起こっている。ここから、無限の「循環論法」である価値形態(0)が生まれる。
 この(0)によって、紙幣を一般的な貨幣に置き換えることが可能となる。流通するから価値をもつ貨幣は、価値をもっているので流通する。したがって、最初は「本物」の「代わり」であった貨幣も、流通することによって価値をもつので「本物」となる。今度は時間を逆にたどると、「本物」も最初はほかの何かの「代わり」であったといえる。このことから、金すらも何かの「代わり」だったという考えが十分に妥当することがわかる。ここでは上記でも述べたように、本物/代わりの二項対立の思考法が意味をなさない。


Ⅱ貨幣によってもたらされる恐慌と「危機」
貨幣がある世界においては、商品を売る側と買う側の立場は本来的には「飛躍」があると岩井は述べている。それは、買う側にとってみれば「全体的な価値形態」(鄱)から「一般的な価値形態」(鄴)への飛躍であり、売る側にとってみれば、それとは逆の、(鄴)から(鄱)への飛躍である。つまり、「売ることの困難とは、商品を貨幣に交換することの困難」*14であり、「買うことの困難とは、貨幣を商品に交換することの困難である。」*15これは、一見対称的な関係のように考えられるが、彼は、買うことの困難にこそ、つまり貨幣が貨幣の役割を果たさなくなるようなハイパー・インフレーションにこそ、資本主義の本当の危機があると主張する。 
それについて議論する前に、まず恐慌­について検討する。恐慌によって資本主義が滅びるという言説があるが、現実には、恐慌によって滅んだ資本主義など歴史上なかったし、また、恐慌と資本主義の間には一種の親和力が働いていて、それによって資本主義はより強靭さを増していると、岩井は序章で述べている。そのことを検討するために、まず、部分均衡について考え、次にそれを一般化し、恐慌と貨幣とのかかわりについて論じる。
任意の市場においては、売る側によって主観的につけられた価格が、買う側に提示されることによって、客観的な指標となる。そこで、買うか買わないか判断されることによって、価格の上げ下げが行われ、次第に需給が一致する均衡点に落ち着くという、部分均衡が成立する。だが、貨幣経済においては全体は部分の単なるよせ集めではない。貨幣経済との対比をするため、まず貨幣のない世界を考える。
貨幣のない世界、つまり物々交換が行われている世界では、いわゆる「欲望の二重の一致」が、商品を交換するときに必要となる。そこでは必然的に、売ることは買われることであり、買うことは売られることである。よって、部分的な需給が一致しない場合であっても、時間を捨象すれば、全体的な需給は、その定義上必ず一致する。
一方、貨幣のある世界においては、貨幣の流動性が存在するために、全体的な需給は必ずしも一致しない。ヴィクセルの理論をもとに、この影響を検討する。ここで、なんらかの原因で貨幣の流動性に対する需要が高まったと仮定する。岩井も述べているが、為替の取引をするための、あるいは債券市場の裏返しという意味での「貨幣市場」はあっても、同質の貨幣の需給を一致させるような市場はその定義上ありえないので、その需要の高まりは、財市場、労働市場に反映する。そのことは、財市場においては、財の需要不足を意味する。よって、売り手は財の価格を下げるか、供給を減らすことによって、需給の一致を試みる。ある財の値下げは、相対的には他の財の価格の上昇を意味する。よって、他の財の価格も下げられる。これも、相対的にはその他の財の価格の上昇を意味するので、同様なことが、永遠と繰り返され、物価の下落が続く。一方、財市場における、ある財の供給の減少は、その財の生産要素となる他の財の需要の減少や、労働市場の需要の減少を意味する。この過程が繰り返されることにより、財の価格を下げた場合と同様に、物価の下落が続き、また賃金も下落が続くと考えられる。ここではまさに、あの「命がけの飛躍」(マルクス)が現実に認識され得る。
しかし、この認識を直接現実に当てはめることはできない。これほどまでの長期間デフレが進んでいる(いた?)日本社会に、ヴィクセルの論理が妥当するとすれば、物価・賃金ともに、すでにほぼゼロになっていてもおかしくはないが、現実はそうではない。それはなぜか。その理由には、ケインズによって指摘された、「賃金の下方硬直性」という性質が挙げられよう。労働者は、「通常通貨賃金の切り下げには抵抗するが、賃金財の価格が上昇するたびごとに労働を撤回するのはかれらの慣行ではない。」*16このことから、少なくとも短期的には、労働市場には、需給の一致によって、価格=賃金が決まるという「市場」が成立していないということがいえる。つまり、「資本主義社会が本来的に持つ自己破壊の傾向が、まさに資本主義化されていない『外部』の存在によって抑えられているのである」*17といえる。
 だが同時に、「賃金の下方硬直性」があることによって、総需要の減少は市場の価格のみによって調整され得ず、生産と雇用の削減を伴う。これが「累乗過程」によって倍増されることによって、激しい景気循環が起こる。貨幣があることによって、資本主義経済には、このような不安定性が必然的に備わっているが、以上のようにそれは資本主義に崩壊をもたらすようなものではない。岩井によると、資本主義が根本的「危機」に陥るのは、恐慌ではなく、ハイパー・インフレーションの下においてであるという。
 上記でも述べたように、貨幣は無限の「循環論法」である価値形態(0)を根拠に成り立っている。ここから、「貨幣が今まで貨幣として使われてきたということによって、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくことが期待され、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくというこの期待によって、貨幣が今ここで現実に貨幣として使われる」*18という循環論法が考えられる。そしてその循環論法は、一定の人々の間で同質の貨幣の受け渡しをすることが出来る「貨幣共同体」を根拠に成り立っている。このことを念頭に入れ、ハイパー・インフレーションについて考える。
 その事態の下では、人々は流動性選好を縮小し、恐慌のときとは逆に、買うことの困難が全面に現れる。つまり、貨幣を相手が受け取ってくれないという事態が起きる。そこにおいて、買い手にとって売り手は、貨幣共同体の外にいる「異邦人」と化する。そして、すべての人が「異邦人」となったとき、貨幣共同体は崩壊する。この崩壊こそ、資本主義の「危機」であると岩井は主張する。
 それに対して、人々の流動性選好が増大するような恐慌は、会社が倒産したり、失業者が増加しようとも、人々が貨幣を求める限りにおいては「貨幣共同体」への信任の表明であると考えられる。そして、「歴史は、じっさいはげしさを増しながら繰り返し襲ってくる恐慌とそれに続く不況という試練をかいくぐりながら、資本主義社会がますますその強靭さをましてきていることをわれわれに教えつづけているのである。」*19
マルクスにとっては「貨幣は商品」*20であった。そして、その貨幣を商品交換の場において使う限りにおいては、等価交換が行われる限り余剰価値が生まれないので、貨幣は資本へ転化しない。そして、ただ労働市場においてのみ、労働力を商品として買い、その買い値以上のものを生産させることによって初めて余剰価値が発生し、それが資本へと転化するという結論が導かれた。
 ここで労働力は貨幣によって買われるということに注目せねばならない。岩井は、労働力が商品化されるはるか以前に、貨幣が「ない」世界から「ある」世界への跳躍という奇跡の「あいだ」から、余剰価値はすでに生まれたといっている。このことは、貨幣形態(0)によって根拠付けられる。それは商品交換の場においてさえ、余剰価値に基づいていたということを意味する。このことによって、「搾取」によって余剰価値が生まれたという大命題の根拠付けが危うくなる。商品世界はその起源に「鏡像段階」をすでに背負い込んでいるのだ。


Ⅲ総括
 岩井は貨幣の起源をその無根性ゆえ語りえないものであるとともに、無限のかなたからの住人からの贈与でもあるとした。そして、そのような宙吊り状態ゆえに、ハイパー・インフレーションのときに表れる「異邦人」=他者にこそ資本主義の「危機」があるというのである。彼の「貨幣」にはデリダの「正義」と類似性を感じる。「彼(デリダ)は『正義』を脱構築不可能なものとして、つまり根拠づけもなしえない何か、という表象において提出し、そして最後にこれを何者によっても根拠付けられない『他者』への贈与という概念へと“超越化”する。」*21竹田は、そのような「超越性」を何も新しい原理を構想できないという点において、「捏造」と断罪したが、だとすると岩井の「異邦人」も「捏造」となりかねない。岩井の「異邦人」がデリダの「他者」と同程度の「超越性」備えているのかどうかという点及び、それは新しい原理を構想できるのかどうかという点に疑問が残った。

 

〈参考文献〉
内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書
松原隆一郎『経済思想』新世社
竹田青嗣『言語的思考へ−脱構築現象学径書房
資本論』、『経済学批判』、『雇用・利子および貨幣の一般理論』は『貨幣論』から孫引き
「私の機能を形成するものとしての鏡像段階」は『寝ながら学べる構造主義』から孫引き

*1:資本論』、p.88

*2:貨幣論』、p.19

*3:同、p21

*4:同、23p

*5:同、p46

*6:「私の機能を形成するものとしての鏡像段階」、括弧内は評者による

*7:同書、p69

*8:貨幣論』、p.96

*9:同書、p106

*10:『経済学批判』、p.101

*11:『経済学批判』、p.100

*12:貨幣論』p.126

*13:『経済学批判』、p.99

*14:貨幣論』p.155

*15:同、p.156

*16:雇用・利子および貨幣の一般理論』、p.9

*17:貨幣論』p.183

*18:貨幣論』p.201

*19:貨幣論』p.223

*20:資本論』p.105

*21:『言語的思考へ−脱構築現象学』、p.328、括弧内は評者による