いいネタが思いつかないのでとりあえず私の個人的な、あまりに個人的な「知識人」(?)体験でも徒然なるままに書こうと思う。誰かにとって何かの参考になれば幸いです。

ニューアカはすでに死んでいた

私が大学生に入った当時、なぜか現代思想的なものに興味を持ってしまった。
現代思想関係の授業をとってたりもしたが、なにがきっかけだったというよりはむしろ、よほど暇だったのだろう。サークルに入るというわけでもなく、バイトに励むわけでもなく、引きこもるわけでもなく、資格をとろうとするわけでもなく、というわけで。
わかりたいあなたのための現代思想・入門 (宝島社文庫)』を手始めに現代思想・哲学関係の入門書(邦訳の原典はあまり読んでいない)は結構読んだ記憶がある。それらの入門書は、適度な難解さで暇つぶしにはちょうどよかった。法律学や経済学と違って理解できなくとも心地が良い。そして、そのうち、「柄谷行人」というひとや、「浅田彰」というひとがビックネームだとわかった。そのころはまだ『批評空間』もあった。(起源(?)をたどれば高校時代になぜか買った、宮崎哲弥らが書いた『ニッポンの知識人』で彼らの名前をはじめて見た記憶があったが、そのときにはちんぷんかんぷんだった。)
そしてお決まりの『構造と力―記号論を超えて』もよんでみたり、出たばっかりの『トランスクリティーク ― カントとマルクス』を買った挙句、紀伊国屋で行われた出版記念セミナーみたいなのに出たりもした。結構なはまりようだ。挙句の果てには、『アンチ・オイディプス』の読書会に出たりもした。(読書会といっても、『アンチ・オイディプス』は読まずに、というかみんなあまり意味がわからなかったので、まず、前提知識ということでフロイトの理論の説明とかをしていた。そんなのが数回あって退屈だったので、結局いかなくなった。)
そして、むかしむかしに「ニューアカデミズム」ブームみたいなのが起こってたということもわかった。「ニューアカは今ではちょっと痛い過去」みたいに思われているもなんとなく感じてた。(2ch山形浩生のwebページ等をみてるうちに。)

出版社に就職したある友人に聞くと、蓮実重彦浅田彰柄谷行人といった固有名詞を知っていた人は彼の以外に一人しかいなかったらしい。(ちなみに、スガ秀美・仲正昌樹はゼロ。)

やはりニューアカはすでに死んでいた。当然だ。ついでにいえば、よくいわれるが、「教養」や「思想」みたいなものも死にかけている。浅羽通明がとこかで書いていたかもしれないが、「レジャーランド化」以降の大学において「教養」をみにつけようとする営みは、現在では一種の現実逃避なのかもしれない。
しかし、学生(時代の現代思想にはまっていた私)にとってなにが現実なのだろうか?目的=end(就職・進学等)を目指すためになにかやることが現実に沿っている、と考えられるのだろうか?いっぽう、目的=endがないということこそが現実、という考えもあるかもしれない。私は学生時代が終わり仕事をしている今でも(むしろ今のほうが)目的はない。
「目的=endをもてばきりがない」見たいなことをいってたはずの『構造と力』に今も影響を受けているのかもしれない。