歴史は二度くり返される。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として。

みたいなことをナポレオン(=悲劇)と、その甥であるルイ・ボナパルト(=喜劇)を指して、ヘーゲルがいったらしいが、岸が壮絶な安保反対運動のなか、安保成立と引き換えに職を辞した−安倍の言葉を借りればまさに職を賭した−悲劇を演じたとすれば、その孫である安倍は、イラク特措法延期を職を賭しても実現するといっておきながら、いったそばから延期さえできずに唐突な辞任、そして、在任中の周囲のドタバタ劇、これらはまさに喜劇と呼ぶにふさわしい。
安倍は岸の果たせぬ夢の実現を目標として、首相になったのかもしれないが、夢の実現以前に、岸の悲劇を喜劇として再演した結果になってしまった。岸の演じた悲劇に対しては、賛美のほか、憎しみも起こっただろうが、安倍の喜劇に対しては喜劇ゆえに、憎しみさえ起こらない。安倍に対しては、サムくて笑うに笑えない喜劇に対する反応があるのみである。すなわち、憎しみの代わりに嘲笑が、賛美の代わりに同情が。
サムい喜劇は悲劇以上に悲劇的かもしれない。

 最近、中途半端に、本を読み散らかしている。
 積読がたまっていく一方なので、久しぶりに、読書の記録をつけてみる。
 
 
 *読了
 
 

 『バブルへGO』をちょっと前にみた。大蔵省の総量規制がバブルを崩壊させた、との仮説のうえに話が成り立ってた、ように思えた。総量規制=濡れ手で粟をつかんでる地上げ屋等に対する規制、ということも政策意図としてはあったのかもしれない。(=モラリズム!)
 バブル崩壊の元凶としては、大蔵省のミクロ政策よりも、日銀の引き締め的な政策の方が害悪が大きかったのかもしれないけど。
 いや、ミクロ・マクロの相乗効果かもしれないが。
 いずれにしても、本書はアンチモラリズムの書としてすばらしい。
 安易に経済問題にモラリズムを持ち込むべきでないような気が…
 
 
  
 

カネと暴力の系譜学 (シリーズ・道徳の系譜)

カネと暴力の系譜学 (シリーズ・道徳の系譜)

 本書では、国家≒ヤクザ組織、という見方が提示されている。
 新鮮な見方だ。
 ドゥルーズ=ガタリもいまだに、道具としてなら、ある程度使えるのかもしれない。
 『アンチオイディプス』とか『ミルプラトー』とか、あんなに分厚く、意味不明な本、自分じゃあまり読む気はしませんが。でもなんか文庫化されたなー

 
 
 

ホワイトカラーは給料ドロボーか? (光文社新書)

ホワイトカラーは給料ドロボーか? (光文社新書)

 
 経済理論と現実の雇用問題が結び付けられていたわかりやすい。
 でも、多少物足りない気もしなくもないが、忘れかけてた経済学の復習としてちょうどよい本だ。
 やはり、「生産性」はクルーグマンやブランシャールらもいってるとおり、測定困難、ということを再認識できる。全要素生産性(TFP)は必ずしも「生産性」とは一致しない、といった基本もキチンと書かれている。
  


 *未読了(まだ読んでる途中、読む予定?)

 

 

日本的雇用慣行―全体像構築の試み (MINERVA人文・社会科学叢書)

日本的雇用慣行―全体像構築の試み (MINERVA人文・社会科学叢書)

 最近、労働関係に興味が出てきた。

 
 

近代ヤクザ肯定論―山口組の90年

近代ヤクザ肯定論―山口組の90年

 『カネと暴力の系譜学』との関連で読むといいかも。
 近代ヤクザによる労働市場の流動化作用が垣間見れる。
 近代ヤクザには、規制によって守られている、労働者の賃金の下方硬直性を緩和する作用がある、とよめる。
 下方硬直性を緩和し、失業スレスレのマージナルな労働市場を流動的にすることで、失業者がちょっとは減るかも知れない。
 グッドウィルは、法的に派遣しちゃいけない、港湾・建設業に労働者を派遣してて問題になったけど、非合法組織が派遣しても大きなニュースにはならなかったかも。定義上、非業法組織の仕事は非合法的なものであるので、順法義務はないのか?
 製造業への派遣は、最近までだめだったわけで、規制緩和の意図としては、国際競争力やら多様な労働形態(失業を減らす)とかやらを理由にして、不況下で賃金の下方硬直性を緩和したいとの意図も政府にはあったのかな。だとすれば、近代ヤクザはうってつけ?ヤクザを近代ヤクザとして温存しておいたほうがよかった?そんなわけないか?やはり失業に対しては、規制するにしろ緩和するにしろ、ミクロ的な介入政策よりも、政府・日銀によるマクロ政策を重視すべき?


 

 絶版だったところ、再販されたので買った。
 ドイツ語が多くてあまり意味わからん。
 概念法学とやらも意味不明で半ば挫折。
 従来の判例で言われている、制度的保障論とやらが怪しいらしいのだが…
 シュミット=共和主義者として読んだ方がよいのか?
 憲法の要請により、市民(シトワイヤン)の創出のために、フランス的に、教会も「真空化」(といっていいのか?)するべきところだが、憲法で教会等は個別的に「保障」されている、といったところか?
 日本の学説・判例などの制度体保障論に対する批判をしている章は未読。ここくらいは理解できそうなのに。
 
 
 

市民と憲法訴訟

市民と憲法訴訟

 
 
 リアルな感じがして結構面白い。
 ただ、緻密な理論構成を行っているところに、急に価値判断が入り込んでいる気もしなくもなく、違和感が。
 でも、法律一般の特徴なのかも…結構多くの裁判判例もいきなり価値判断してるようなきがする…
 思い込み?
 あとがきから、著者に引かれた。
 いつも留守番をしてくれてる息子への感謝をしているあたりが、いい人そうだ。
 誰か、著者のドキュメンタリー映画とか撮ってくれないかな… 


 

現代マクロ経済学講義―動学的一般均衡モデル入門

現代マクロ経済学講義―動学的一般均衡モデル入門

 数式を追ってくのが面倒、一部理解不能でぱらぱら読んだだけだが、それほど面白いインプリケーションは、ないような気が…ただ、「動学的一般均衡モデル」という方法論が重要なんでしょうね。私は理解不可能ですが。



 今日はここまで。
 後日追加予定。


http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20061227/p2 より


>経済学部の学生が経済学を勉強しない理由はたくさんあるでしょうが、有力な理由のひとつは経済学を勉強しても現実がわかるようになる気がしないことだと思います。そして、それは正当なことなのです。彼らが書くレポートは経済学的思考にも、論理的思考にもほど遠いものであるでしょうが、彼らだって、いやいやとはいえ、初級の経済学の授業で経済学的思考の重要さなりは耳にしているのです。これも決め付けですが、学生が経済学的思考をしない理由は経済学思考のトレーニング以前に、それをする動機自体不足しているからではないでしょうか。そして、以上の私の推測が正しければ、経済学を勉強しない、経済学的思考を身に着けないという彼らの決定は非常に経済学的にまっとうなものだといわざるをえません。


 まさに、その通りだと思います。さらに、合理的なひとであれば、文型であれば経済学部に進学せずに法学部へ進学した方が望ましいということになるのではないかとおもいます。そもそも、経済学部の存在意義自体、東大等のごく上澄みを除けば、教員の受け皿・法学部にいけかかった(いかなかった)文型受験生の消去法的受け皿・就職のための受験能力のシグナリング、くらいにしか求められないのではないかと思います。
以下、法学部と経済学部(両者は、同じ大学もしくは同レベルの大学と仮定)を比較してみます。(議論の前提として、私はリフレ派(?)に「啓蒙」され、その考えを支持してる、ということを念頭においてください。)

 
 まず、一般企業に就職する場合には、当然ながら、両者は基本的には無差別です。
ただ、企業の法務部門は法学部卒が法律の知識にくわしければ重宝されるでしょう。逆に経済学部が経済学の知識にくわしくても重宝される部署はあまりないでしょう。*1


 次に、資格試験・公務員試験等についてですが、これは法学部卒が有利(=法学部で学んだ法律の知識が役に立つ)だと考えられます。


 法曹・司法書士行政書士・社労士については法学部卒の方が有利でしょう。
 会計士・税理士については、おそらく無差別でしょう。つまり、少なくとも経済学部卒だからって有利になることはあまりないと思います。(経済学の知識が必要となるのは、おそらく会計士試験の選択問題ぐらいです。しかし、その代わりに民法も選択できた気がしますが・・・)


 国Ⅰについては、法律職と経済職を同難易度と仮定すれば(倍率は経済職のほうがおそらく低いでしょうが法律職は記念受験者が結構いるとききますので)、両者は無差別となります。


 それ以外の公務員試験については、経済学系科目についての試験はあるものの、法律系科目の方がやや多い場合が多い場合が普通なので、法学部の方がやや有利でしょう。


 以上から、学生にとってもっとも強いインセンティヴ要因として働くと考えられる、就職への有利さという面からみると、経済学部だからって有利となる場面はほぼ考えられません。合理的な受験生ならば法学部へいったほうがより望ましいでしょう。(だから、ほぼすべての大学での偏差値が法学部>経済学部となっているのかもしれません。これを敷衍すれば、文学部・社会学部系が法学部・経済学部よりも有利になる場面はおそらくないでしょうから、それらの偏差値もより低くなります。)


 次に、「ひとはパンのみに生きるにあらず」とか「理念なしには生きられない」といった調子で、就職へのインセンティヴを抜きに考えてみます。


 ここで、「法律」よりも「経済」の方に興味ある人がいて、大学入学時点では就職のことは興味ないから、やや興味のある経済学部に進学したとします。*2「経済」に興味があるからって経済学部の方が望ましいのでしょうか。この答えの一つとして考えられるのが、大阪さんの言葉を借りれば「リフレ派の人々の啓蒙活動で明らかになったことは、学術論文を書く能力だけでは、現実経済のことがわかるわけではないということです」。*3これが正しいとすれば、学部の講義を聴くより、リフレ派の啓蒙書を読んだ方が、少なくとも学部レベルでは「経済」についてはよく理解できるといったケースが多々発生すると考えられます。当然ながら啓蒙書を読むことは経済学部でなくともできることです。したがって、「経済」についての理解については、少なくとも学部卒レベルでは、経済学部卒とそれ以外では基本的に無差別と考えてよいかと思います。経済学部卒だからって、経済及び経済学に関する知識は経済学部生じゃなくとも身につけられる「啓蒙レベル」かそれにちょっと毛が生えた程度です。*4現に、経済学部卒ではなくとも、現実を分析できる経済学を身につけている人は結構いるはずです。*5
 また、経済学部を卒業すると物事を論理的に考える「経済学的思考」が身に付くと仮定しても、法学部を卒業すれば同様に「リーガルマインド」が身に付くとすれば、「経済学的思考」と「リーガルマインド」の優劣は比較不可能という立場をとれば、両者は無差別です。そもそも、「経済学的思考」を身に付けるにしても、講義なんを聞くより、『ヤバイ経済学』やリフレ派の本を読んだほうがよさそうですが…対して、「リーガルマインド」は、「経済学的思考」のようにお手軽に身に付かないような気がします。実定法の学習を通して初めて身に付くというイメージがあります。偏見があることを承知で極端な例を挙げれば、民法を学べばそれなりに「リーガルマインド」が身に付くようなきがしますが、ミクロ経済学を学んだところで「経済学的思考」が身に付くわけではない気がします。


 また、ごく個人的な経験によるものですが、仕事をする上で法律は何かと顔を出し、「リーガルマインド」があるとすれば役に立つ場面は多々出てきそうですが、「経済学的思考」が必要となる場面はほぼありません。ホワイトカラーの組織においては、ある程度えらくなるか、分析力が必要とされる専門的立場を与えられない限り、「経済学的思考」が必要となる場面はそう多くない、というのが仕事をしてみての実感です。私的な領域を離れて、公的な問題を自分なりに考えるときはもちろん「経済学的思考」も役に立つとはおもってますが。しかし、公的な問題へのコミットメントは私も含め「なんでそんなしんどいことせにゃあかんのというとこがほとんどに人にとってハードル」(by大坂)となって、結構しんどいものかも知れません。結構、私を含めた一般人は、仕事・子育て・介護・家族・恋人・友達関係のことで手一杯じゃないんでしょうか。これが「啓蒙」の難しいところかもしれませんが…


最後に、経済の大学院に進学することを念頭に学部を選ぶ場合について考えてみます。「啓蒙レベル」で飽きたらない人で実践的な「ニュートン力学的(by八田)経済学」や先端の「量子力学的(by八田)経済学」を学びたければ、注で述べた東大・一橋のごく優秀な学部卒の一部の人をのぞいた通常の人は、大学院へ進学しなければならないでしょう。*6大学院への進学の場合は、はじめて例外的に経済学部卒の方が法学部卒より有利になるでしょう。しかし、今度はこの場合では、経済学部は理系(得に物理・数学・工学系?)と無差別になるか、東大(一橋?)を除けばむしろ、理系の方がやや有利かも知れません。数学的基礎をみっちりやれるという意味で。




 以上をまとめれば、経済学部への進学は法学部への進学と比べてほとんどの場合、望ましくないか無差別である、といえそうです。また、経済学部へ行かなくても「啓蒙レベル」であれば「経済」の見方は身につけられそうです。リフレ派等の書物を通して。法学部より経済学部へいった方が有利になる場合があるとすれば、大学院への進学を前提とした場合です。ただその場合でも、理系の学部へいった場合の有利さとたいして違いはなさそうですが。

*1:院卒はとりあえず考慮しません

*2:イコール私?同じ大学の法学部うかってたけど政治経済学部にいってしまいました。出身ばれる?当時は法律も経済もそこまで興味なかったけど経済の方がちょっとだけ興味あったので政治経済学部に進学してしまいました。

*3:余談ですが、八田達夫さんが以前『経済学の潮流』でたしかいってたはずですが、経済学部では工学部的なものと(ニュートン力学)と理学部的なもの(量子力学)が混在していて、両者とも中途半端なうえ、しかも、学部教育なのに後者が重視されていることを批判していた記憶があります。

*4:例外的に、東大や一橋くらいだと、学部卒もしくは一橋の学部修士一貫した5年の教育で、「啓蒙レベル」を超えた専門性を身に付けられるかもしれません。行ったことないので何ともいえませんが。同様に、文学部・社会学部へ行ったからって「啓蒙レベル」を超えた専門性は身につけられない気がします。法学部・経済学部でも、文学および社会学についての「啓蒙レベル」を身につけることは十分可能です。いや、それを身につけることは、文学部・社会学部で法学・経済学を身につけることより、容易なことかもしれません。あくまでも「啓蒙レベル」での話ですが。専門的な知識を身に付けたければ、出身学部に関係なく、大学院へ進学すればよいのではないでしょうか。進学においてはもちろん、文学・社会学部出身者の方が法学・経済学部出身者より有利になるかも知れませんが。また、文学部・社会学部の場合も、経済学の場合と同様に、東大とかだったら、学部卒で例外的に「専門性」を身に付けてる人もいるかもしれませんが。

*5:bewaadさんとか。

*6:少子化により、大学に職をえることは相当むずかしくなっているらしいので、ここでも彼の就職へのインセンティブは考慮しません。


インディヴィジュアル・プロジェクション』 論―1990年代後期の身体の表象について

 
 18世紀に「人間」という概念が「発見」された。つまり、その時代に初めてヒトは自分自身を「自然」から区別し、自己を特権化するようになったのである。しかし、フーコーの認識に従えば、「人間」の発見以来、ヒトは「透明な眼差し」として外からタブローをのぞき見ていたが、18世紀後半から19世紀前半にかけて「人間」自身をタブローの中に組み込んだことにより「地殻変動」が起った。ここでいう「地殻変動」とは即ち、「人間」の相対化の始まりとみなすことが出来る。今日でもなお、その「地殻変動」の余震が響き続けているとすれば、その相対化が進行しているとみなすことが出来る。その結果どういうことが起こり得るだろうか。そのことについてフーコーは次のように述べている。
「それにしても、人間は最近の発明に関わるものであり、二世紀とたっていない一形象、われわれの地の単なる折り目にすぎず、知がさらに新しい形態を見いだしさえすれば、早晩消え去るものだと考えることは、なんとふかい慰めであり力づけであろうか。」(『言葉と物』)
 ここで彼は、知がヒトに関して「新しい形態」を見いだしたときにおける「人間」概念―表象としての「人間」―の消失を予見している。
 この論考のおもな目的は、『インディヴィジュアル・プロジェクション』(以下『IP』)を用い、1990年代後半の身体の表象を抽出すことによって、「地殻変動」の余震、即ち「人間」の相対化が進行しているかどうか、しているとすれば、そこではヒトに関する「新しい形態」が、どのように見出されつつあるのかということについて考察することである。
 『IP』の主題は、文庫版にある東浩紀による解説に従えば、「移転と分裂、神経症的なものと多重人格的なもののこの共存」*1といえる。その神経症的なものと多重人格的なものがどこに共存するかといえば、それはもちろん身体に共存するのである。神経症においては、単一の精神が移転を通して、複数の身体に宿る(と認識する)。それに対して、多重人格においては、精神が複数に分裂しつつ、単一の身体に宿る。これは、『IP』の舞台となっている渋谷の風景とも重なる。「一方でそこには神経症的なアイテムが満ちていて、消費のモードが高速で回転している。しかし他方でその町路はまた奇妙に非人間的で移転不可能な空間でもあり、通行人たちは互いに関心を示さず、ただ黙々と目的地へ邁進するか、携帯電話に話し掛けすぐ横での売春交渉に気づくこともない。」*2つまり、『IP』の主人公であるオヌマは渋谷を表象しているのである。
 『IP』はオヌマが書いた日記による独白という形式をとっている。従って、この日記においてはオヌマ以外の登場人物の主観的感情を読者が知ることは出来ない。『IP』の中盤あたりで、オヌマの分身であるかのようにオヌマ自身によって暴かれたカヤマ、イノウエは、最後においては、じつは彼らが実在しているということが示唆される。それによって、オヌマについて途中までは多重人格のような印象を抱かせるものの、最後の頃のカヤマ、イノウエが「実在」していたという場面によって、実はオヌマは自己と他者とを同一視するような「ただの神経症」であったというだけのような印象を抱かせる。ここで「ただの神経症」という言い方は、単に神経症を軽く見ているだけだと思われるかもしれないが、そういうわけではない。日記というオヌマの主観を通しての物語世界しか知ることが出来ないこの小説の形態において、主観が分裂している多重人格は、オヌマとその分身の自他の区別のあいまいさのみでなく、物語世界自体に対してもあいまいさを読者に感じさせる効果を持つからである。しかし、最後のカヤマ、イノウエの「実在」の示唆によって、物語世界の「実在性」も保障される。つまり、物語世界自体を骨抜きにするという圧倒的な力をもつ多重人格との対比においては神経症も「ただの神経症」といえるのである。
 しかし、対して、オヌマが過去に入っていた高踏塾についての日記の中での回顧で、レポートを書く際には、「自分以外の誰かに徹底してなりきってみることが肝要で」、そのレポートの作成は、「塾生たちの想像力強化の訓練でもあった」という記述もある。*3すると、オヌマが神経症であったということによって一時は片付いていたはずの『IP』の物語世界の「実在性」が再び揺らぎ始める。『IP』が「自分以外の誰かに徹底的になりきって」書かれた、単なる「想像力強化のための訓練」の一環でしかないとしたら・・・
 最後に書かれている、M=マサキによって書かれた日記についての感想のなかの次の記述により、それはさらに裏付けられる。「そう君もすでに気づいているかもしれないが、これはまさに私の歌でもある。『ボヘミアン/詩人/宿無し/みんな私』だとフリオはいう。私もそうだ。君はどうか?そろそろ君も、『みんな私』だと言い切らねばならぬ頃だと思うが、どうだろう?」*4ここから、オヌマ=マサキと解釈してみる。するとこのことから、この物語自体がオヌマ/マサキが自分自身に課した課題であると考えられる。それは先の、『IP』が「自分以外の誰かに徹底的になりきって」書かれた、単なる「想像力強化のための訓練」の一環である、という解釈とも整合的である。まさに、この本は題名の通りの「インディヴィジュアル・プロジェクション」なのだ。ではなぜ敢えて、「インディヴィジュアル・プロジェクション」などといったことをオヌマ/マサキは自分自身に課したのだろうか。
 そのことの理由の一つには、「身体の希薄さ」ということが挙げられよう。『IP』冒頭で、オヌマは、フリオの歌を聞きながらセックスをするのが習慣となって以来、その歌によって触発された性的衝動は、性的な処理か暴力的な処理のいずれかにによってしか解消され得ないということが示されている。一方彼は、偏頭痛持ちでもあり、「父親も偏頭痛もちなので、遺伝かも知れぬが、だとすればぼく(オヌマ)の代でほぼ克服された。訓練によって。」*5だが、「これ(フリオの歌に触発された性的衝動)ばかりは寝ても無駄なのだ。ぼくが目覚めれば、当然、僕の身体じたいも目覚めてしまう。」*6
 以上のことから、この物語を性的衝動によって目覚めた身体を規律付ける「訓練」の一環として読むことが出来る。つまり、性的衝動は物語化=対象化されることによって「昇華」されるのである。その中では、必然的に自己は規律する側/される側に分裂せざるを得ない。その規律化の結果として、「理性」は得られるが、性的衝動が身体によって満たされない以上、身体は希薄になるのも当然といえる。
 フーコーは『監獄の誕生』の中で、パノプティコンに代表されるような、近代における規律権力の内在化を指摘した。近代において「理性」を獲得するためには、自分で自分を律しなければならないのである。しかし、その規律の過程において、誰しも自己の中に多かれ少なかれ、規律する側/される側という分裂が生じる。だがそれによって、身体的な衝動をなにか他のものに「昇華」することが可能となる。
 ここでは二つの問題が生じる。上でも述べたようにそれは、自己の分裂と身体の希薄化という問題である。このことから、上記の問題設定―1990年代後半の身体の表象を通して考えられる、「地殻変動」の余震、即ち「人間」の相対化が進行しているかどうか、しているとすれば、そこではヒトに関する「新しい形態」が、どのように見出されつつあるのかということ―について次のような暫定的な解答を与えることが出来る。
 この物語における身体の表象は、自己の規律化=理性化の課程において見出される、希薄な身体である。本来「理性的」な存在であったはず/あるべき「人間」は、まさにその「理性化」の過程において、「非人間的」な自己の分裂を抱えてしまっている。その意味で「人間」は相対化されており、1990年代後半においてそのことが表象されている。その問題に対する著者の解答は、即ちヒトに関する新しい形態として、この本主題である「移転と分裂、神経症的なものと多重人格的なもののこの共存」*7という形態が提示されている。それはまさに、オヌマが表象している渋谷の街でもあり、それが著者が「渋谷系J文学?」とかいわれた所以であろうが、「パンクバンドはセックスピストルズ以降には登場しなかった」(?)とかいったような言葉があるように、阿部以降の「渋谷系J文学」以降の「渋谷系J文学」は「渋谷系J文学」でないと私は考える。

*1:『IP』、p.206

*2:同前

*3:『IP』、p.55−56

*4:同前書、p.190

*5:同前書、p.6、括弧内は引用者による

*6:同前、括弧内は引用者による

*7:『IP』、p.206


Ⅰ貨幣の成立
 『貨幣論』の1、2、3章において、主眼に置かれているのは、一言でいえば、貨幣の成立に関する考察であるといえよう。だがそこから得られる洞察は、経済の現象一般についてのみならず、主体/客体、本物/代わりの二項対立の思考法を超える契機を含んでいる。また、『資本論』というテクストが「読者」(岩井)(著者のマルクスから見れば「客体」)によって解釈され、そこでは『資本論』の「著者」としてのマルクスの「主体性」がそぎ落ちて、マルクスが自ら強烈に支持した労働価値論を自ら無意識的に壊してしまっているという読みが与えられているという点においても、上記の二項対立の崩壊の構図を、メタなレベルで捕らえられ興味深い。では、『貨幣論』での『資本論』を敷衍した、貨幣の成立についての考察について詳しく見ていく。
 マルクスは、上記にもあるように、労働価値論を熱烈に支持していた。このことは、次のような記述からも明らかである。「労働生産物は、それが価値である限りでは、その生産に支出された人間労働の単に物的な表現でしかない。」*1だが、このような表現は、「現代においては、超保守的なマルクス経済学者のあいだでも」*2その実体論的主張が薄めようとされる傾向が強いという。
 しかし岩井は、労働価値論を非実体論的に解釈しようとする試みを批判する。(ただし、後にも見るように、彼自身は、労働価値説そのものは支持していないと考えられる。しかしそれは、教条的な立場からのマルクスの論理そのものに説得力を与えるための安易な不支持ではなく、マルクスを徹底的に読み込み、そこから得られた貨幣についての「循環論法」という視点からの論理による、労働価値説を内側から破壊するような不支持である。)というのも、労働価値論を実体論として捕らえることによって初めて、価値形態論を綿密に展開することが可能となったからである。
 岩井は、「マルクスにとって、価値を形成する抽象的人間労働とは、ありとあらゆる人間社会に共通する『超』歴史的な実体以外のなにものでもないものである。」*3と述べている。よって、「マルクスの資本主義社会に関する科学(=資本論)の目的とは、超歴史的な価値の『実体』がまさにどのようにして商品の交換価値という特殊歴史的な『形態』として表現されるのかを示すことにあることになる。」*4このようなことを背景として考えることによってはじめて、マルクス自身も「細事のせんさく」と呼んだ、価値形態論についての考察の必要性、必然性が明らかとなる。
 興味深いことに、このようなマルクスの「科学観」をニュートンの「科学観」と比類することによって、マルクスのそれのヘーゲル左派的な要素が浮き彫りになる。ニュートンは、神が作り賜えた世界の「自然法則」を解明すること自体に価値を見出し、物理現象の解明を試みた。ここでニュートンは、神をいわば「実体」として捉えることによって初めて、当時の時代状況からすればおそらく「細事のせんさく」であるような物理現象をその「形態」として捉えることによって、解明し得たのである。一方、ヘーゲル左派は、ヘーゲルによる「神が人間を」自分に似せて作ったという考えを転換させて、「人間が神を」自分に似せて作ったと考えた。ここでは、人間と神の位置は逆転される。したがって、ニュートンにおける神の位置に、人間が代入されることによって、人間労働を「実体」としてみることが可能となる。以上の考察からもわかる通り、労働価値論にはヘーゲル左派的な思考法が必要不可欠だったのではないだろうか。
 マルクスは、『資本論』によって「疎外論」から「物象化論」へと転換したという説があり、評者自身もそれには大方賛成だが、その「物象化論」を生む契機となった価値形態論の根本にあった労働価値論には、ヘーゲル左派的、「疎外論」的な要素が不可欠だとすれば、前期と後期を簡単に分けるのは難しいのかも知れない。だがその反面で、上記でも述べたように、マルクス自らが労働価値論を無意識的に批判しているという点から考えると、やはり前期と後期に論理的切断が認められる。よって、これらの場合の論点は、テクストの自律性を認めるかどうかという点に、おそらく集約されるのではないだろうか。
 商品世界は、相互依存的な価値体系であるという趣旨のことをマルクスは述べている。だがこのことは、新古典派一般均衡理論においても認識されたことである。マルクス新古典派とを区別する基準は、資本主義の商品世界に固有の価値形態である「貨幣形態」に関する考察であると岩井は述べている。貨幣は、重商主義者によってストック概念として捉えてられていたが、そのような説は、古典派によるいわゆる貨幣数量説によって退けられた。しかし、恐慌において人々は、彼らの「啓蒙」にも関わらず貨幣に「神秘性」を見出し群がる。マルクスは、その「神秘性」を呪術的な要素などにではなく、一般的等価物であるという機能に見出した。ここから、価値形態論が展開されるのである。
 そこでの議論を、ごく簡略化して敷衍する。まず、「単純な価値形態」(鄯)として、「相対的価値形態」にあるAが、Bとの交換可能性の価値を表現することによって、Bは「等価形態」になる。ここでは、Aが主体で、Bが客体である。ここにおいて、ひとつの興味深い示唆が得られる。ここで、BはAによって「社会的」に価値が与えられているにもかかわらず、あたかもそれ自体で価値があるかのように人々に表象されてしまうのである。この社会的性質と、モノそのものの性質の取り違えこそ、価値形態に秘められた、貨幣形態の性質であるとマルクスはいった。だが岩井によると、「もしこの『取り違え』が『貨幣形態の秘密』のすべてであるならば、それは古典派による重金主義批判の水準を少しも越えるものではない。ここではまだ、等価形態にかんする『とりちがえ』は単なる主観的な呪物崇拝にすぎず、何の必然性ももっていない。」*5という。
 そして次に、「全体的な価値形態」(鄱)として、Aが「相対的価値形態」、〔B、C、D、E、F〕が「等価形態」という構図が挙げられている。次に、「一般的な価値形態」(鄴)として、〔B、C、D、E、F〕が「相対的価値形態」、Aが「等価形態」という構図が挙げられている。最後に、「貨幣形態」(鄽)として、〔A、B、C、D、E、F〕が「相対的価値形態」、一定の貨幣が「等価形態」という構図が挙げられている。
 (鄽)において、マルクスの貨幣形態に関する考察が終わるが、岩井によると、ここでも単に「共同幻想」を指摘しただけであり、(鄯)と同様、商品世界の構造の必然性が述べられていないという。そこで彼は、(鄱)から(鄴)への移行に注目し、Aという主体が〔B、C、D、E、F〕を客体化し、客体化された〔B、C、D、E、F〕が主体として、Aを客体化するという構造を見出す。ここで、Aは「相対的価値形態」であるとともに「等価形態」である。そして、Aを貨幣に置き換えると、「循環論法」的な貨幣形態(0)が成立する。
 (0)においては、価値形態論は、(鄱)と(鄴)とのあいだの「循環論法」と捉えられるので、そこにおいては、外部的要素である労働価値説は無効となる。ここでは、主/客の崩壊が、上記でも述べた通り、二重の意味で進んでいる。
 一つは、商品世界でのいわば「鏡像段階」(ラカン)における主/客の渾然とした状況である。ラカンは次のように述べている。「(言葉も語らない段階にいるこどもが鏡の像を喜悦とともに引き受けるという)現象は、私たちの目には、範例的な仕方で、象徴作用の原型を示しているもののように見えるのである。というのは、〈私〉はこのとき、その原始的な型の中にいわば身を投じるわけだが、それは他者との弁証法を通じて〈私〉が自己対象化することにも、言語の習得によって〈私〉が普遍的なものを介して主体としての〈私〉の機能を回復することにも先行しているからである」*6この「鏡像段階」を貨幣形態(0)に置き換えて考えてみると、貨幣が商品のいわば「鏡」の働きをすることによって、「循環論法」が成立していると考えられる。「鏡像段階」の通過によって人間は、幼児期の「分断された身体」に統一性を与え「私」を形成するとともに、その「私」の起源はその外部によって担保されているという点で一種の狂気を背負い込むことになる。それと同様に、商品世界においても、貨幣という鏡によって、商品世界には相互依存的な関わりが生まれる。その成立の起源には、人間世界と同様に一種の狂気を見出すことが可能なのかもしれない。
 もう一つの主/客の崩壊が著者であるマルクスの主体性を離れた、テクストの自律性である。マルクスは、労働価値論を徹底させたがゆえに価値形態論を展開することができたのだが、その価値形態論が労働価値説をテクストの内部から崩壊させるという事態が生じた。それを防ぐために、マルクス自身も「貨幣自身の価値は、貨幣の生産に必要な労働時間によって規定されていて、それと同じだけの労働時間が凝固しているほかの各商品の量で表現されている。」という、苦し紛れの仕掛けを作った。しかし、岩井の指摘するように「ここでマルクスは、フローの価値とストックの価値とを混同するという初歩的な誤りを犯している。」*7のは明らかである。
 以上のような価値形態論を踏まえ、交換過程論について考察する。岩井の趣旨に沿えば、交換過程論においては、モノとしての商品の寄せ集めが、価値体系としての商品体系への転化の物語を語ることが課題であるという。物々交換の世界では、いわゆる「欲望の二重の一致」が必要である。それに対して貨幣的交換がある世界においては、『貨幣』が一般交換性を持つことから、物々交換にはない貨幣的交換に特有な現象が生まれる。そのことによって、商品経済が成立する。よって、上記の物語を語ることとは、貨幣の成立について語ることともいえよう。
 貨幣の成立については、貨幣法制説と貨幣商品説という二つの考えがあった。前者は、「外部の権威によって、「貨幣」の一般的交換性が保証されている」という考えである。だが、時・空間の(主観的な)無限性を前提とするものを外部から簡単に措定できなかろう。よって説得性にかける。後者は、「もともと、全員からほしがられるものがあって、そのものが、時間の経過とともに『貨幣』として認知されていった」という考え方である。岩井によると、マルクスは後者に位置付けられるという。しかし、後者においても、特殊から一般へ、つまり商品から貨幣へ、という説に対する反論が、「貨幣」、「家畜」、「羊」という、一般から特殊へという変遷をたどった「peku」という語を用いてなされている。ここでは、「『家畜』という商品が最も全体的な欲望の対象であったから『貨幣』になったのではなく、『家畜』という商品がすでに『貨幣』であったから最も全体的な需要の対象」*8となりえたという可能性が示されている。
 以上のことから、貨幣の成立の説明としては、貨幣価値説・商品説ともに妥当性を持たないことになる。岩井はそれらの理論を、「貨幣という存在の中核にある空虚に絶えることができずに、なんらかの実態で埋め尽くそうとするこころみ」*9による「神話」にすぎないと断罪している。というのも、貨幣は循環論法的な形態(0)によって支えられている以上、実体的な根拠を想定するのは不可能だからである。したがって、貨幣の成立は無根拠な出来事になり、その成立は「奇跡」と見なさざるを得ないというのが、岩井の趣旨である。無根拠な「奇跡」の成立を物語ることが、「神話」=物語の一種の役割であるとするならば、「神話」=物語の拒絶は、それに代わる、代替案が示されない限りにおいては、無根拠性=「空虚」をそれとして受け止めることが要請される。
 その上で、貨幣の成立について考えるとどうなるだろうか。ここでは、「神話」を拒絶した以上、無限の「循環論法」である価値形態(0)を前提とできるし、またそうせざるを得ない。そして、「循環論法」から貨幣の成立を考えるヒントを、またもやマルクス自身が、意図せずして出している。
 マルクス自身は価値記号論において、流通している紙幣を金塊などの「本物」の「代わり」とみなしている。また彼は労働価値論を支持していたので、兌換され得る「本物」の金には、投下労働時間が反映されていると考えた。しかし、紙幣は兌換準備金の量と関わりなく現実には流通し得る。したがって彼は、紙幣の流通に関しては、価値法則のような自然法則とはみなしておらず、「規範」的な実務上の規定として、「紙幣の発行は、紙幣によって象徴的に表示される金(または銀)が現実に流通しなければならない量に制限されるべきである」*10と述べている。ここでの彼の「規範」性は、倫理的な動機からではなく、単に、理論の一貫性を保つためになされたものである。だが、上にも記したとおり、現実は彼の「規範」の通りになっているはずはなく、兌換準備金以上の紙幣が流通し得る。その場合紙幣は、「それがどういう金名義を持って流通に入り込もうとも、流通の内部では、その代わりに流通できるはずの金量の記号にまで圧縮される。」*11と、彼は述べている。それに対して、「金と貨幣のように、そのあいだの対応関係が何の制限もなく自由に伸び縮みし、一日たりとも同じでないとき、そこにはもはや記号するものと記号されるものという関係は成立していない。記号とは、記号とは、記号されるものと記号するものとの関係がなんらかの意味で恒常性をもつからこそ、初めて記号としての働きをするのである。」*12と岩井は述べている。
 では紙幣はなにを根拠として流通しているのか。その説明を奇しくもマルクス自身がしている。すなわち、「金は価値をもつから流通するのに、紙幣は流通するから価値をもつのである。」*13ここでまたもや、マルクス自身が労働価値論を自分で否定してしまっている。そして、「一般的な価値形態」(鄴)から、「全体的な価値形態」(鄱)への反転が起こっている。ここから、無限の「循環論法」である価値形態(0)が生まれる。
 この(0)によって、紙幣を一般的な貨幣に置き換えることが可能となる。流通するから価値をもつ貨幣は、価値をもっているので流通する。したがって、最初は「本物」の「代わり」であった貨幣も、流通することによって価値をもつので「本物」となる。今度は時間を逆にたどると、「本物」も最初はほかの何かの「代わり」であったといえる。このことから、金すらも何かの「代わり」だったという考えが十分に妥当することがわかる。ここでは上記でも述べたように、本物/代わりの二項対立の思考法が意味をなさない。


Ⅱ貨幣によってもたらされる恐慌と「危機」
貨幣がある世界においては、商品を売る側と買う側の立場は本来的には「飛躍」があると岩井は述べている。それは、買う側にとってみれば「全体的な価値形態」(鄱)から「一般的な価値形態」(鄴)への飛躍であり、売る側にとってみれば、それとは逆の、(鄴)から(鄱)への飛躍である。つまり、「売ることの困難とは、商品を貨幣に交換することの困難」*14であり、「買うことの困難とは、貨幣を商品に交換することの困難である。」*15これは、一見対称的な関係のように考えられるが、彼は、買うことの困難にこそ、つまり貨幣が貨幣の役割を果たさなくなるようなハイパー・インフレーションにこそ、資本主義の本当の危機があると主張する。 
それについて議論する前に、まず恐慌­について検討する。恐慌によって資本主義が滅びるという言説があるが、現実には、恐慌によって滅んだ資本主義など歴史上なかったし、また、恐慌と資本主義の間には一種の親和力が働いていて、それによって資本主義はより強靭さを増していると、岩井は序章で述べている。そのことを検討するために、まず、部分均衡について考え、次にそれを一般化し、恐慌と貨幣とのかかわりについて論じる。
任意の市場においては、売る側によって主観的につけられた価格が、買う側に提示されることによって、客観的な指標となる。そこで、買うか買わないか判断されることによって、価格の上げ下げが行われ、次第に需給が一致する均衡点に落ち着くという、部分均衡が成立する。だが、貨幣経済においては全体は部分の単なるよせ集めではない。貨幣経済との対比をするため、まず貨幣のない世界を考える。
貨幣のない世界、つまり物々交換が行われている世界では、いわゆる「欲望の二重の一致」が、商品を交換するときに必要となる。そこでは必然的に、売ることは買われることであり、買うことは売られることである。よって、部分的な需給が一致しない場合であっても、時間を捨象すれば、全体的な需給は、その定義上必ず一致する。
一方、貨幣のある世界においては、貨幣の流動性が存在するために、全体的な需給は必ずしも一致しない。ヴィクセルの理論をもとに、この影響を検討する。ここで、なんらかの原因で貨幣の流動性に対する需要が高まったと仮定する。岩井も述べているが、為替の取引をするための、あるいは債券市場の裏返しという意味での「貨幣市場」はあっても、同質の貨幣の需給を一致させるような市場はその定義上ありえないので、その需要の高まりは、財市場、労働市場に反映する。そのことは、財市場においては、財の需要不足を意味する。よって、売り手は財の価格を下げるか、供給を減らすことによって、需給の一致を試みる。ある財の値下げは、相対的には他の財の価格の上昇を意味する。よって、他の財の価格も下げられる。これも、相対的にはその他の財の価格の上昇を意味するので、同様なことが、永遠と繰り返され、物価の下落が続く。一方、財市場における、ある財の供給の減少は、その財の生産要素となる他の財の需要の減少や、労働市場の需要の減少を意味する。この過程が繰り返されることにより、財の価格を下げた場合と同様に、物価の下落が続き、また賃金も下落が続くと考えられる。ここではまさに、あの「命がけの飛躍」(マルクス)が現実に認識され得る。
しかし、この認識を直接現実に当てはめることはできない。これほどまでの長期間デフレが進んでいる(いた?)日本社会に、ヴィクセルの論理が妥当するとすれば、物価・賃金ともに、すでにほぼゼロになっていてもおかしくはないが、現実はそうではない。それはなぜか。その理由には、ケインズによって指摘された、「賃金の下方硬直性」という性質が挙げられよう。労働者は、「通常通貨賃金の切り下げには抵抗するが、賃金財の価格が上昇するたびごとに労働を撤回するのはかれらの慣行ではない。」*16このことから、少なくとも短期的には、労働市場には、需給の一致によって、価格=賃金が決まるという「市場」が成立していないということがいえる。つまり、「資本主義社会が本来的に持つ自己破壊の傾向が、まさに資本主義化されていない『外部』の存在によって抑えられているのである」*17といえる。
 だが同時に、「賃金の下方硬直性」があることによって、総需要の減少は市場の価格のみによって調整され得ず、生産と雇用の削減を伴う。これが「累乗過程」によって倍増されることによって、激しい景気循環が起こる。貨幣があることによって、資本主義経済には、このような不安定性が必然的に備わっているが、以上のようにそれは資本主義に崩壊をもたらすようなものではない。岩井によると、資本主義が根本的「危機」に陥るのは、恐慌ではなく、ハイパー・インフレーションの下においてであるという。
 上記でも述べたように、貨幣は無限の「循環論法」である価値形態(0)を根拠に成り立っている。ここから、「貨幣が今まで貨幣として使われてきたということによって、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくことが期待され、貨幣が今から無限の未来まで貨幣として使われていくというこの期待によって、貨幣が今ここで現実に貨幣として使われる」*18という循環論法が考えられる。そしてその循環論法は、一定の人々の間で同質の貨幣の受け渡しをすることが出来る「貨幣共同体」を根拠に成り立っている。このことを念頭に入れ、ハイパー・インフレーションについて考える。
 その事態の下では、人々は流動性選好を縮小し、恐慌のときとは逆に、買うことの困難が全面に現れる。つまり、貨幣を相手が受け取ってくれないという事態が起きる。そこにおいて、買い手にとって売り手は、貨幣共同体の外にいる「異邦人」と化する。そして、すべての人が「異邦人」となったとき、貨幣共同体は崩壊する。この崩壊こそ、資本主義の「危機」であると岩井は主張する。
 それに対して、人々の流動性選好が増大するような恐慌は、会社が倒産したり、失業者が増加しようとも、人々が貨幣を求める限りにおいては「貨幣共同体」への信任の表明であると考えられる。そして、「歴史は、じっさいはげしさを増しながら繰り返し襲ってくる恐慌とそれに続く不況という試練をかいくぐりながら、資本主義社会がますますその強靭さをましてきていることをわれわれに教えつづけているのである。」*19
マルクスにとっては「貨幣は商品」*20であった。そして、その貨幣を商品交換の場において使う限りにおいては、等価交換が行われる限り余剰価値が生まれないので、貨幣は資本へ転化しない。そして、ただ労働市場においてのみ、労働力を商品として買い、その買い値以上のものを生産させることによって初めて余剰価値が発生し、それが資本へと転化するという結論が導かれた。
 ここで労働力は貨幣によって買われるということに注目せねばならない。岩井は、労働力が商品化されるはるか以前に、貨幣が「ない」世界から「ある」世界への跳躍という奇跡の「あいだ」から、余剰価値はすでに生まれたといっている。このことは、貨幣形態(0)によって根拠付けられる。それは商品交換の場においてさえ、余剰価値に基づいていたということを意味する。このことによって、「搾取」によって余剰価値が生まれたという大命題の根拠付けが危うくなる。商品世界はその起源に「鏡像段階」をすでに背負い込んでいるのだ。


Ⅲ総括
 岩井は貨幣の起源をその無根性ゆえ語りえないものであるとともに、無限のかなたからの住人からの贈与でもあるとした。そして、そのような宙吊り状態ゆえに、ハイパー・インフレーションのときに表れる「異邦人」=他者にこそ資本主義の「危機」があるというのである。彼の「貨幣」にはデリダの「正義」と類似性を感じる。「彼(デリダ)は『正義』を脱構築不可能なものとして、つまり根拠づけもなしえない何か、という表象において提出し、そして最後にこれを何者によっても根拠付けられない『他者』への贈与という概念へと“超越化”する。」*21竹田は、そのような「超越性」を何も新しい原理を構想できないという点において、「捏造」と断罪したが、だとすると岩井の「異邦人」も「捏造」となりかねない。岩井の「異邦人」がデリダの「他者」と同程度の「超越性」備えているのかどうかという点及び、それは新しい原理を構想できるのかどうかという点に疑問が残った。

 

〈参考文献〉
内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書
松原隆一郎『経済思想』新世社
竹田青嗣『言語的思考へ−脱構築現象学径書房
資本論』、『経済学批判』、『雇用・利子および貨幣の一般理論』は『貨幣論』から孫引き
「私の機能を形成するものとしての鏡像段階」は『寝ながら学べる構造主義』から孫引き

*1:資本論』、p.88

*2:貨幣論』、p.19

*3:同、p21

*4:同、23p

*5:同、p46

*6:「私の機能を形成するものとしての鏡像段階」、括弧内は評者による

*7:同書、p69

*8:貨幣論』、p.96

*9:同書、p106

*10:『経済学批判』、p.101

*11:『経済学批判』、p.100

*12:貨幣論』p.126

*13:『経済学批判』、p.99

*14:貨幣論』p.155

*15:同、p.156

*16:雇用・利子および貨幣の一般理論』、p.9

*17:貨幣論』p.183

*18:貨幣論』p.201

*19:貨幣論』p.223

*20:資本論』p.105

*21:『言語的思考へ−脱構築現象学』、p.328、括弧内は評者による


「レントの経済学」(?)が偶然にも議論されていた。



http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20061207 より


「市場の均衡化作用の速度と経済成長の動因であるイノベーションインセンティブとはトレードオフの関係」

「他方で、新技術の成果が経済全体で享受できる状況は新技術が同じ市場に行きわたり、なおかつ、正常利潤(ゼロ利潤)の状態が達成された時点です。したがって、技術の導入を所与として考えれば、新技術が普及しなおかつ正常利潤ににまでゆきつくまでの期間が短いほど、経済全体の厚生にとって望ましいことになります。

したがって、新技術導入の頻度がそのインセンティブに左右されるとすれば、市場および技術の模倣の効率化のスピードと新技術の導入の頻度のスピードは反比例します。」


なるほど。この議論が正しいとすれば、


ミクロでは「市場の均衡化作用の速度」が速い、「経済全体の厚生にとって望ましい」効率的な市場が成立している程、マクロでは「経済成長の動因であるイノベーションインセンティブ」が低下し、経済成長が阻害されてしまう、ということになるのだろう。
私の議論では、模倣等(技術のスピルオーバー)を前提としない、「短期」について議論したせいか、知的所有権の保護が経済厚生を増加させる、というモデルだったが、模倣等(技術のスピルオーバー)を前提とし、動学的なモデルを考えれば、知的所有権の保護が経済厚生を低下させ得る、といことになるのかも。


勉強になる。*1

*1:前に、チャールズ・I. ジョーンズ『経済成長理論入門』でこのような議論を読んだ気もしなくもない…「車輪の発明」!?…

少し、読書日記風にしようかと画策

昨日の購入本

右翼と左翼 (幻冬舎新書)

右翼と左翼 (幻冬舎新書)


食肉の帝王 (講談社+α文庫)

食肉の帝王 (講談社+α文庫)


『右翼と左翼』は市野川容孝『社会』や薬師院仁志『日本とフランス二つの民主主義』などと似てて、自由と平等を問い直すみたいな感じで、最近の流行なのか?
『食肉の帝王』は同著者の『新版・現代ヤクザウラ知識』を読んで面白かったので読んでみようかと。
今読んでる途中だが、同和利権大阪府行政のつながりを記した部分が興味深い。